草木も眠る丑三つ時,道玄坂病院4階整形外科病棟で,恐ろしい事件が起きた。目撃者はかくいう私である。夜な夜な私の枕元に立ったのは何者だったのか?幽霊か,泥棒か,はたまた殺人鬼か?とにかく白衣の天使でなかったことは確かなのだが……
右下腿骨複雑骨折。これを接合する手術を受けるとき,私は大部屋から4人部屋に移された。
最初,隣のベッドに誰がいたか,記憶が定かではないのだが,とにかく,やがて,そこに高村さんという初老のおじさんが新規に入院してきた。自宅の階段で足を踏み外して転落し,大腿骨をポッキリと折っている。幸い複雑骨折ではないので,すぐに手術できるだろう。
ひょろっとした体型,太い黒枠のめがねをかけた都会的ではあるが,神経質そうな人だった。ただ,反面,まじめで几帳面という感じもするので,まずは安心か。そう思って迎えた悪がき軍団だった。
足の骨を折った場合,状況にもよるが,骨が互い違いになってしまうのを防ぐために,牽引することが多い。足の筋肉というのは強力だから,放っておくと,どんどん縮む力が働く。このとき,ヒビ程度ではなく,骨が完全に上下分離する形で折れていると,骨が支えにならないので,どんどん筋肉が縮んで骨が互い違いになってしまう。これは,非常に痛むし,第一このままでは骨が着かない。手術しようにも,引っ張りきれなくなる。
そこで,ベッドを傾斜させ,頭方向を下にして患者を寝せる。さらに傾斜のかかった台に足を乗せ,足先を引っ張る。状況によっては,くるぶしや膝の骨にボルトを貫通させ,そこにフックをかけて,ヒモをつるし,滑車を通してベッドの外に何キロもの重りをつるして牽引することもある。恐ろしげに聞こえるが,骨を折った者にとっては,引っ張ってもらうことで,痛みが和らぐのである。そして,骨の位置がこれだけでもかなり修正できるのだ。
高村さんの場合は,骨がポッキリと完全に分離する形で折れてはいたが,筋肉も衰えており,それほど重い分銅を使わなくてもよかった。また,ボルトなどは使わず,単にベルトで足先を引っ張っていたように思う。まだ,運び込まれたばかりで,ギプスも巻いてない。こんな状態では,起き上がることもままならず,寝たきりである。下の世話もすべて看護婦さん任せだった。
最初の数日は,やはり痛みが残っているのか,朝も疲れた顔をしていた。あまり眠れないのだろう。ここにいる者は,誰しも経験していることなので,気持ちはよく分った。高村さんの場合は,外傷もなく,すぐ手術だ。手術の日までは,ギプスを巻いて固定するでもなく,とりあえずは牽引を続けて様子を見ているようであった。
それから2-3日経ったある夜のことである。悪がきどもの集会はいつものように,看護婦さんの見回りの合間を縫って行われた。いい加減遅くなった(といっても高々10時半ぐらい)ころ,散会となり,各自ベッドに戻った。
ベッドに上り,ベッドの周りを囲むカーテンを引っ張って,ささやかなプライベートスペースを作る。
「さて,今日も寝るか。」
病棟の夜は早いが,起床も6時半。あんまり夜更かしもできない。枕元の電灯を消し,眠りに入った。
そして,草木も眠る丑三つ時。超夜型人間の私も,手負い,じゃない,足負いということも手伝い,流石に熟睡していた。夜中に一度看護婦さんの見回りがあるが,そのときはうっすらと意識を取り戻し,また眠りの世界に引き戻される。
ところが,その夜は,再びベッドサイドで人の気配がしたのだ。ひょっとすると,高村さんがナースコールして,看護婦さんが駆けつけて,なにか処置しているのかも。などと,朧げながら考えていた。
しかし,それなら看護婦さんが何か高村さんに話しかけるはずだ。「どうしました?」と天使のささやきが聞こえて当然なのだ。しかし,そういう声もしない。
夢と現実の狭間にいた私の意識であるが,その人の気配がゆっくりと私の枕元に近づいてくる。このことははっきりと覚えていたわけではないが,無意識の中で,「何か来る!」ということに気づいていたのは確かだ。
いきなり,枕元のカーテンが乱暴に引き開けられた。すでに無意識の中でも警戒していた私は,とっさに顔を上げた。
そこには暗い顔をした男が立ってた。その顔はすでに50cmほどまで接近して,私を覗き込んでいた。襲い掛かられたら,にげられない距離まで接近していた。「ウワッ」っと言ったきり,それ以上声も出ない私に,その顔は問いかけてきた。
「私のカバン,知りませんか?」
良く見れば,なんと,それは,高村さんだった。
怖い。怖すぎる。そして,あまりの驚きで,心臓が飛び出そうだった。
あれ?え?え?高村さん!?隣で寝たきりのはずの?
ありえない!ありえねー!片足の大腿骨が完全に折れているのに。
この人はどうして立っているんだ?
寝起きの私には,状況が難しすぎた。パニックとはまさにこのことだろう。
「か,カバン?…ですか?」
これだけ絞り出すのがやっとだった。
「ないんですよ。そこに置いておいたはずなんですが。」
本人はいたってまじめである。
私はもうナースコールのボタンを押していた。
誰か来てくれ。怖いよー。
「カバンって,どうするんですか?」
「いや,ウチに帰らないと。」
「は?はい?帰るって?」
やがて,看護婦さんが駆けつけてきてびっくり,
「まあ,やだ!高村さん,何してるんです。」
「いや,僕のカバンがね,見つかんないんですよ。」
「何を言っているの?今は寝てください。」
「帰りたいんだがね。」
「冗談じゃありません。その足でどうやって帰るの?とにかく,もう寝てください。お願いします!」
なんとかなだめすかして,高村さんはベッドに押し込まれた。
あたりまえだが,私はすっかり目が冴えてしまい。その後なかなか寝付けなかった。
いったい,どういうわけで,高村さんは急に帰るなんて言い出したのだろう。
それより何より,大腿骨が折れていて,牽引を外して立ち上がったら,おそらくかなりの痛みがあるはずだ。
片足で移動できるとはいえ,起き上がって,ベルトを外し,ベッドを出て立ち上がり,私の枕元まで,少なくとも1m近く移動する。これは足を折ってみれば分るけど,かなり大変なことだ。尋常な神経で出来る訳が無い。
翌朝,ワルガキ軍団の緊急早朝会議が開かれたのは,言うまでも無い。
「ゆうべさー,大変なことがあったんだよー」
「かしらー,どうしたの?なにがあったの?」
毎朝元気なムスコさんを持つワルガキ達。五体不満足なのは片足だけという元気な若者だ。毎日が退屈でたまらないから,こういうニュースを飢えた狼のごとく渇望している。
そこから噂が広まり,やがてその広まっているという事実が問題となる。
その日の午後,婦長がいきなりやってきた。
キンドーさんを女にしたような婦長さん(キンドーさんとは何か?ご存知ない方は,とりあえずこれこれでも読んでみて)
「あーたたちね,高村さんのことを,あんまり広めないでちょうだい。あの人だって,悪気があってやったんじゃないのよ。ちょっと混乱していただけなの。だから,以後,この話はしないようにね。いいわね。」
そりゃ,まあそうなんだろうね。いや,俺は別に悪い噂を流してやろうとか,そういう魂胆はなかった。ただ,ワルガキ連に話題を提供できればそれでよかったんだけど。やっぱり,その結果として噂が広まっちゃったんだね。まあ,高村さんには,悪いことをしたかもしれないな。
ということで,全員「はーい」とよい子の返事をして,その場は終わった。
ところがところが!高村さんは,その夜,またもや私の寝首を掻きに来たのだ。
警戒はしていたものの,そこは熟睡中。無意識にも気配を察して,いくらか覚醒したときには,すでにカーテンがバッと開いていた。
「あのー,僕の靴知りませんか?」
またきたー。
2度目だからって,慣れたりしない。最初と同じぐらい驚いて,
「うわあああ」
と叫んだ。パニックになった。
「し,知りませんよ,そんなの!」
今回は,通路を隔てて向かい側の如月さんも,さすがに起きた。栃木弁丸出しのおもしろいおじいさん。バイク事故かなんかで膝のあたりを骨折。外傷から骨髄炎を併発し,長引いている人だ。顔は怖いけど,金縁の歯をニッとむき出しにしてカッカッカと笑う面白いおじさんだ。
ドスの効いた栃木弁で,「高村さん,どうしました?」
「いや,靴を探してるんですが,ないんですよ。」
「くづなんがはいで,どごさいぐの?」
「家に帰らないとなんないんですよ。」
「家に?いやあ,無理でしょう」
如月さんの答弁はあまりにも当然すぎる。それだけにこの光景がますます異様だった。
なにしろ,帰るのが無理なはずの人が立っているのだから。
すでにナースコールのボタンを押していたので,間もなく看護婦さんが駆けつけてきた。
「あら,またあ!いやだ,高村さん。立ち上がったりしちゃだめでしょ!」
「いや,靴がないんですよ。」
「またそんなことを言ってるの?」
「帰らないと」
「帰れませんよ。帰りたかったら,言うことをきいてください。さあさあ,もう寝て!」
もういやだ,もうこんな人の隣はいやだ。
翌朝,私は,看護婦さんに,強硬に抗議した。
「もう,あの人の隣に寝たくありません。神経がまいっちゃいますよ。何とかしてください。」
看護婦さん達も,困り果てていたが,私の抗議も当然のことと理解を示してくれた。
その日,高村さんはとりあえず個室にでも移ったのか?そのときの処置は記憶していないが,とにかく我々の4人部屋から出て行った。
後日,キンドー婦長がワルガキ軍団のところに再び現れた。
「みんなも注意してね。アルコール中毒っていうのは,ああなるのよ。」
つまり,高村さんは,かなり重症のアルコール依存症だったようだ。そして,仕事の事も気になっていたらしい。それらがいろいろと混ぜ合わさって,夜中に起き上がり,家に帰ろうという行動になって現れたらしい。そのとき,本人が正気だったのか,あるいは夢遊病のような状態だったのかは定かでない。
そういうキンドー婦長の首は常に左右に細かく揺れていた。この人はニコチン依存症か,はたまた高血圧か,その両方か。
まあ,ワルガキ軍団みたいなやつもいれば,高村さんのような人もいる。その責任の一端は我々患者にもあるんだろうね。