ウータンフクダが辞職だって?何でまたこの時期なんだか知らないけど,最近首相が突然辞めるの流行ってんのかね?
首相交代だって,コストがかかる。そのコストは国民が負担しているんだから,そういう意識も持ってもらいたいものだ。
まあ,私は日本に税金払ってないんで,どうでもいいんだが。
さて,前置きが長くなるといけないので,ここらでソー政治の話はやめておこう。
またもや新シリーズである。新シリーズ作って,最後までいったことがないのに,懲りずにやる。
まあ,先月50歳になったことだし,この辺で前半戦を振り返ってみようかと思う。ということで昔話をしよう。
ウータンが辞めるというが,私も仕事を辞めたことが,これまでの人生で3回ある。
今日はその2回目について話す。
その前に,1回目について,軽く触れる。一回目は,日本での出来事で,オーストラリアに移住するにあたり,大学卒業後10年間勤め上げた某F社というコンピューターメーカーを辞めた。これである。
で,こっちに来て,最初の辞職。これが人生2度目の辞職である。
そして,これは,自分の意思ではなかった。そう,題名のとおり,「お前,明日から来なくていい!」と言われて辞めさせられた。
正確には,直属のマネージャーから,
「明日を最後に辞めなさい。続けるという選択肢もあるが,その場合,よほどのことがない限り,いずれは,あんたの首を切るしかない。今なら自主退職ということにしてあげる。給料も2か月分は出すし,職歴に傷は付かない。どっちがいいか,一晩考えて,明日の朝返事をしてくれ。」
と言われた。もちろん,次の日に辞める道を選んだ。
要するに,私のパフォーマンスが気に入らないと,そういうことである。ただし,景気がよければ問題なかった。当時,景気が悪く,その部署の人員整理がそのマネージャーの仕事の一部であった。これも事実だ。だから,私の力不足と,そのときの状況,両方が悪かったというのが私の解釈である。
後日談がある。数ヶ月後に,同僚だったベトナム人女性も退社,彼女の場合は自主退社だったが,とにかく,退社後に,話をしようということで,ランチを共にしたことがある。そのときに聞いた話。
そのあと,私の後を引き継いだ人がいる。中国系シンガポール出身のおっさんだったんだが,彼がもっとヘマをして,しかもそれを最後まで隠し通そうとして,ついにはばれて,普段温厚なプロジェクトマネージャーが,声を荒げてそいつをののしったという。そいつは即刻クビになったらしい。その他,それ以外のことで,私の仕事を引き継いで,私よりまともにできた奴はいなかったようだ。こんなことなら,私を切るべきじゃなかったと,直属のマネージャーが言ったとか言わなかったとか。とにかく,まあ,私に落度が全くなかったとは言わないが,私を切ったことで,事態はさらに悪化したということで,「ざまあみやがれ」といったところである。
さて,なぜ,そこまでの事態に陥ってしまったのか。ということだが,
まず第一に,もちろん私の力不足がある。
一つはプログラミング環境の変化。それまで,日本にいたときから都合10年近く,Unixでの開発をやってきた。それをWindowsでの開発プロジェクトに参加してしまった。
これがかなり失敗だった。
今思えば,自分なりにもっと勉強すればよかったとも思う。まあ,しかし,後の祭りである。
悪いことに,当時,Windows開発環境は16ビットから32ビットへの過渡期。ただでさえ,理解できないWindowsの特殊事情(Unixから来た者にとっては,Windowsの世界はすべて特殊に見えた)に加え,どうして16ビットと32ビットがごちゃ混ぜになった世界なんかが理解できるであろう。
一気に開発がいやになった。
二つめ。
やる気がしないところにもってきて,周りがイヤな奴ばかりになった。
というか,そのWindowsでのプロジェクトで,最初に入ってきたやつが,ロシア人。こいつがまあ,いやな奴であった。普通に付き合っている分には,おもしろいおっちゃん(私より若いが,私より老けて見える)なんだが,一緒に仕事をすると,ストレス源となる。おかげでロシア人が嫌いになってしまった。偏見といえば偏見。人種差別だと言われれば,そのとおり。しかし,逆に言えば,偏見とか,人種差別というのは,こういう奴のせいで起きるんだと言い切れる。
そして,そいつが,昔の職場関係から,仲間をかき集めてきた。どいつもこいつも気に入らない奴らだった。
三つ目は,言葉の壁だろう。当時,オーストラリアに移住してすでに5年は経っていた。だけど,やっぱりまだまだ。今に比べても英語力は劣った。まして露助のなまった英語なんて聞く耳持たなかった。
四つ目は,まだまだ青かった。というか,図太さに欠けた。たとえば,露助のなまった英語を聞いたら,「おめえなまってるんだよ!」といって分からないことを人のせいにするずうずうしさ。こういったものがまだ不足していた。
五つ目は,以上のようなもろもろのことで,精神的にやられていた。ということだ。毎日仕事場でネットサーフィンにおぼれ,なにも手につかない状態。これが何日も何日も続いた。気が付くと,大幅にスケジュールを逸脱している自分がいた。
ある日,直属の上司に呼ばれた。こいつはイギリス人である。普段ファーストネームで呼び合っているのに,
「Mr Nemoto」
こう丁寧に呼ばれたら,これはいい話ではない。
部屋に入るなり,いきなりガツンと一発。「I’m not happy with your performance!」
ときたもんだ。それから,滔々と,私の落ち度を数え上げ,自分がいかに私に再起のチャンスを与えてきたかを強調し,しゃべりまくる。
当時の私には,対抗する術がなかった。
結局,私には,グループリーダの手厚い指導の元,いくつかの小さなプロジェクトをひとつずつクリアするという課題が与えられた。そのグループリーダーというのが,上記の私の後にクビにされたシンガポール人のおっさんである。しかし,このおっさんは気のいい人でもあり,私を励ましつつ,課題のクリアに協力的に見守ってくれた。
課題のひとつひとつは,私のスキルを駆使すれば,時間的にはきついが,実現はなんとかなるレベルの代物だった。針の筵に座っているような日々だったが,約2ヵ月後には,すべての課題を見事にクリアした。これで,私は,「一応,捨てたものではない」という認識となった。
しかし,マネージャーは私を飼い殺す方針に出た。その後はいろいろな雑用を押し付けられた。言われるままに従っているうち,季節がら,風邪をこじらせた。薬を飲みつづけ,朦朧とした毎日。それでも雑用をこなしていった。
そしてその挙句が,冒頭の言葉である。
そのときは,結局何にイチャモンを付けられたのか。もうほとんど覚えていない。とにかく,いろいろチャンスを与えてやったにもかかわらず。おまえは,結局,ダメだった。という結論である。まあ,ある程度は自分にも思い当たるところがあった。相変わらず,Net中毒は治っていなかった。毎日ネットサーフィンに逃げ込む自分がいた。これは事実だった。しかし,そのとき,そういう誘惑をふっとばすエキサイティングな仕事がなかった。
常に,消化試合のような仕事を任され,前任者を追いかけ,担当プロジェクトマネージャーを捕まえて,方針を聞いた。プロジェクトマネージャーは,いつ行っても誰かと電話しているか,面談しており,いい加減うんざりしており,何も進まない日々が続いたりしていた。
とにかく,俺は悪くないとは言わない。
黙って,明日で辞めるという道を選んだ。
それが,直属マネージャーが用意してくれた,唯一の脱出口だったのだから。
(続く)